【中国語でカラオケ】中国の昔の流行曲ベスト20 1980年代篇
今回は、中国の1980年代の流行曲をご紹介します。現代の若い日本人の方々にはなじみがないかもしれませんが、当時香港、台湾の曲が中国でも徐々に流行っていた時代です。日本でも有名なテレサテンの曲も入っていますので、ぜひチェックしてみてくださいね!
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もくじ
一 中国の1980年代の音楽産業
二 中国の1980年代の流行曲ベスト20
1 『生涯何を求めて』陳百強
2 『千千闕歌』陳慧嫻
3 『冬になるころに』斉秦
4 『愛のささげ物』ウェイウェイ
5 『実はあなたは私の心を知らない』童安格
6 『時の流れに身をまかせ』テレサ・テン
7 『酒の瓶を売ってくれ』スールイ
8 『恋曲1980』羅大佑
9 『信天遊』程琳
10 『僕の未来は夢ではない』張雨生
11 『一度でいいから愛して』庾澄慶
12 『気の向くままに』スールイ
13 『私が本当に何も持っていないかどうか』王傑
14 『アジアの威風』ウェイウェイ、劉歓
15 『風は吹き続ける』張国栄
16 『冬の日のともしび』費翔
17 『オリーブの木』斉豫
18 『想い』毛阿敏
19 『上海灘』葉麗儀
20 『一枝の梅』費玉清
三 まとめ
一 中国の1980年代の音楽産業
80年代には香港・台湾地区の経済が急速に発展したため、娯楽産業も盛り上がりをみせはじめていました。そして、この傾向が香港・台湾地区の歌手にとって良い環境を作り出しました。改革開放の深化に伴い、大陸と香港・台湾の交流は徐々に増え、香港・台湾地区の歌手の大陸でのチャンスも増えました。対照的に、内陸の娯楽産業は当時まだ初期段階にあり、行政の制約と伝統文化の影響を受け、発展は比較的緩やかな状態でした。
80年代の流行歌は香港・台湾の歌手が歌うことが多く、この現象は当時の社会、経済、文化の背景と密接に関係しています。大陸の娯楽産業の発展に伴い、大陸の歌手も徐々に台頭し、現在の中国語音楽界の中で一席を占めています。
二 中国の1980年代の流行曲ベスト20
1『生涯何を求めて』陳百強
中国語:《一生何求》(yī shēng hé qiú)陈百强(chén bǎi qiáng)
陳百強(1958年9月7日-1993年10月25日)は、香港と広東省台山市出身、サンパウロ男女中学校を経て、中国・香港の男性歌手、ミュージシャンとなります。司会者、俳優でもあります。
「一生何求」は広東語の歌で、潘偉源が作詞、王文清が作曲、蘇徳華が編曲し、1989年6月1日にワーナー・レコードから発売された同名アルバム「一生何求」に収録され曲です。TVBドラマ「義不容情」の主題歌でもありました。1989年ヒット曲ベスト10の金賞と最優秀作詞賞を受賞しました。2010年、「中国語金賞曲」30年が12月12日に広州映画祭で発表され、陳百強の代表作「一生何求」が「30年30曲」に選ばれた。
2『千千闕歌』——陳慧嫻
中国語:《千千阙歌》(qiān qiān què gē)陈慧娴(chén huì xián)
陳慧嫻は、1965年7月28日香港生まれ、広東省広州市番禺区が原籍で、中国香港ポップスの女性歌手です。「千千闕歌」は広東語の歌で、林振強が作詞、馬飼野康二が作曲、山東尼が編曲し、欧丁玉、陳永明、陳慧嫻が共同でプロデューサーを務め、1989年7月25日にユニバーサルレコードから発売されたアルバム「永遠はあなたの友達」に収録されています。1989年、同曲は年度無線テレビ曲ベスト10の金賞、第12回香港ラジオ中国語ベスト10の金賞を受賞しました。
「千千闕歌」のメロディーは実は日本の歌手近藤真彦の歌「夕焼けの歌」から来ています。この歌はあまり高揚したメロディーではありませんが、穏やかなメロディーな中に悲しみがあり、陳慧嫻の別れのテーマと一致していると考えられ、そこで香港の作詞家林振強はこの歌を再作詞しました。「千千闕歌」を作ったとき、陳慧嫻は一人の男性に片思いをしていたので、自分の感情を歌にのせていたと言われています。
3『冬になるころに』斉秦 中国語:《大约在冬季》(dà yuē zài dōng jì)齐秦(qí qín)
斉秦は、1960年1月12日台湾省台中市に生まれ、山東省原籍の中国ポップスの男性歌手です。ミュージシャン、俳優でもあり、歌手である斉豫の弟です。「冬になるころに」は斉秦が作詞、作曲し、1987年2月18日に発売されたアルバム「冬の雨」に収録された曲です。同曲は斉秦を代表する作品の一つとなりました。
1988年、同曲は第11回中国語曲ベスト10の金賞を受賞しました。2008年、同曲は改革開放30年で最も人気のある中国オリジナル曲30曲に選ばれました。2010年、「中国語曲金賞」30年が12月12日の広州映画祭で発表され、同曲は「30年30曲」に選ばれました。
斉秦と王祖賢は映画「芳草碧連天」の共演で知り合い、その後2人は交際に発展しましたが、斉秦と王祖賢はそれぞれの仕事が忙しく、別居せざるを得ませんでした。2人で会う機会はとても少なく、電話で話をする以外に、斉秦は歌を書くことで王祖賢への気持ちを表現したといわれています。2つの場所を隔てた恋人として、その気持ちが斉秦にインスピレーションを与えました。そこで斉秦はわずか15分の時間で、王祖賢のためにこのオーダーメイドの曲「冬になるころに」を書き、1987年にリリースされたアルバム「冬の雨」に収録されました。
4『愛のささげ物』ウェイウェイ
中国語:《爱的奉献》(ài de fèng xiàn)韦唯(wěi wéi)
本名は張菊霞、1963年9月28日に中国内蒙古自治区フフホト市に生まれました。山東省臨沂市蒼山県(現蘭陵県)向町が原籍で、中国大陸の女性歌手です。作曲家で、中国でも有名な俳優でもあります。「愛のささげ物」は、黄奇石が歌詞を書き、劉詩召が作曲し、ウェイウェイが1989年に発売したアルバム「歩ききれない愛」に収録されています。1989年、ウェイウェイは中央テレビ局の春節番組でこの曲を歌いました。
1988年、中央テレビ局文芸部の劉瑞琴監督は「人と人」欄の一節を改編し、作品を作りたいと考えました。そこで、劉瑞琴は黄奇石と劉詩召を含む作詞家と作曲家を招き、彼らに自分の考えを伝えました。劉瑞琴は詩「彼女は幸子よりも幸運だった」を黄奇石に渡し、物語に基づいて歌詞を書き、それは生活に寄り添ったものでした。「彼女は幸子より幸運だった」は、北京の深刻な腎臓病を患っている中学生が、両親がサラリーマンであるために高い腎臓交換手術費を負担できなかったことがメディアに報道された後、多くの人々が寄付をし、愛を捧げる物語です。黄奇石はこの物語を読んで感動し、すぐに歌詞を書きました。作品の挿入歌を作るときに、黄奇石は普段歌詞を書いている書き方とは変えて、彼は歌の流行度を考えず、歌詞は比較的素朴に書かれましたと言われています。
5『実はあなたは私の心を知らない』童安格
中国語:《其实你不懂我的心》(qí shí nǐ bù dǒng de wǒ de xīn)童安格(tóng ān gé)
童安格、1959年7月26日台湾省高雄市生まれ、浙江省杭州原籍の、カナダ出身中国系ポップス歌手です。音楽プロデューサーでもあり、作詞作曲家、映画俳優でもあります。「実はあなたは私の心を知らない」は陳桂珠が作詞し、童安格(台湾)が作曲して歌った曲で、童安格が1989年3月13日に発売した同名アルバム「実はあなたは私の心を知らない」に収録されています。
1995年1月、張弘毅は再編曲された「実はあなたは私の心を知らない」で第6回台湾ベスト曲賞「ベスト編曲者賞」に入選しました。1988年、韓国で1988年ソウルオリンピックを見学した時、オリンピックで選手たちの高揚する気持ちに感動した童安格は、「実はあなたは私の心を知らない」という歌を作りました。その後、陳桂珠に詞を書くように誘い、それが童安格はとても気に入り、自分の歌として歌いたいと考えていました。しかし、劉文正が裘海正に歌を書いてもらい、彼は歌を選び、テープに録音して劉文正に渡しましたが、彼はそのテープに「実はあなたは私の心を知らない」という歌が録音されていることを忘れており、それによってこの歌は裘海の曲となりました。しかし、1989年、童安格はこの曲を回収して歌い直しました。
6『時に流れに身をまかせ』テレサ・テン
中国語:《我只在乎你》(Wǒ zhǐ zài hū nǐ)邓丽君(dèng lì jūn)
テレサ・テン(1953年1月29日-1995年5月8日)は、中国台湾省雲林県褒忠郷田洋村出身、中国河北省大名県原籍の、中国台湾の女性歌手です。「時の流れに身をまかせ」は、鄧麗君(テレサ・テン)が歌う代表曲で、三木剛が作曲し、慎芝が詞を書き、川口真が編曲しました。1986年12月20日にEPレコードとして日本ではじめてリリースされました。1987年4月1日、同曲は共通語アルバム「時の流れに身をまかせ」に収録され、香港などで発売されました。
同曲はテレサ・テンの日本語曲「時の流れに身をさらせ」の中国語バージョンであり、テレサ・テンの最後の共通語アルバムのタイトル曲でもあり、長年多くの歌手にカバーされてきました。
1986年2月21日、日本のミュージシャン荒木ともひさ、三木たかしによるテレサ・テンのための日本語シングル「時の流れに身をまかせ」が発表され、日本の有線チャート1位となり、3度の日本有線チャート記録を更新しました。10月に「時の流れに身をまかせ」が日本作曲大賞1位、12月にテレサ・テンが「時の流れに身をまかせ」で3度目の日本有線放送大賞と日本有線大賞のダブル受賞を果たしました。1984年の「つぐない」と1985年の「愛人」に続き、日本復帰3年目の年間優秀曲となりました。これで日本歌謡界ではこれまで誰も破らなかった「2賞3連覇」の記録を打ち立てました。12月末に『時の流れに身をまかせ』が日本レコード大賞の金賞を受賞し、12月31日に同曲で再び大ヒットし、「第37回紅白歌合戦」に出場しました。「時の流れに身をまかせ」はオリコンに57週間ランクインしつづけ、200万枚以上を売り上げました。
1986年、テレサ・テンは台湾の作詞家慎芝にこの曲に共通語の歌詞を依頼し、慎芝は歌に「我只在乎你」と名づけました。共通語歌詞の日本語歌詞にも原意を残しました。標準語バージョンを集録している間、テレサ・テンは腎臓病に悩まされていましたが、彼女は高いレベルで作品全体を完成させました。
7『酒の瓶を売ってくれ』スールイ
中国語:《酒干倘卖无》(Jiǔ gān tǎng mài wú)苏芮(sū ruì)
本名は蘇瑞芬、1952年6月13日台湾省台北市生まれ、中国台湾の女性歌手です。「酒干倘卖无」は羅大佑、侯徳健が作詞、侯徳健が作曲した歌です。UFOレーベルからリリースされた、励ましのメッセージが込められた国語ソングです。
同曲は映画「乗り間違え」の主題歌で、その後何度もカバーされ、1984年に第3回香港アカデミー賞最優秀オリジナル映画歌曲賞を受賞しました。「酒干倘卖无」は閩南語で、「酒の瓶はあるか」という意味です。福建省南、台湾一帯で廃棄された空酒瓶を買い付け、廃品回収所に売って小銭を稼いだ人は、街を歩きながら「酒干倘卖无」と叫び、誰かの家に空き酒瓶があると、廃品を買い取ります。映画の中のストーリーのキーワードともなるべき曲名です。
8『恋曲1980』羅大佑
中国語:《恋曲1980》(Liàn qǔ 1980)罗大佑(luó dà yòu)
羅大佑、1954年7月20日台湾省台北市生まれ、台湾省苗栗県客家人、広東省梅州市梅県区原籍の、中国台湾の男性歌手、ミュージシャン、作家です。「恋曲1980」は、羅大佑が作詞作曲して歌った曲で、1982年4月21日に発売したアルバム「之乎者也」に収録されています。
同曲は羅大佑の最も古典的なシリーズ曲と言える「恋曲」シリーズの最初の曲で、羅大佑の最初の純粋な「ラブソング」でもあります。この曲により、羅大佑の曲の柔和なイメージの道を切り開きました。ノスタルジックな曲の中で、この曲は羅大佑の定番の曲です。「恋曲1980」は1989年12月1日発売の「ラブソングが輝く日」にも収録されています。
9『信天遊』程琳
中国語:《信天游》(Xìn tiān yóu)程琳(chéng lín)
程琳は、1967年10月15日河南省洛陽生まれの、中国大陸の女性歌手で、二胡演奏者としても人気を博しています。「信天遊」は劉志文、侯徳健が作詞、解承強が作曲、程琳が歌った曲で、程琳が1987年に発売したアルバム「新曲・1987」に収録されています。2008年10月24日、同曲は改革開放30周年流行曲勲章を受賞しました。
この流行歌は1987年と1988年に北京大木倉国際声像芸術会社によって再集録され、発売された後、有名な歌手範琳琳が歌い「信天游」は一世風靡し、西北風時代を切り開きました。後世にのこる中国の新しい音楽と呼ばれています。1993年にCCTV東方時空は再び「信天遊」を音楽テレビで範琳琳が歌いました。この歌はすでに中国民族流行音楽の定番となっています。
10『僕の未来は夢ではない』張雨生
中国語:《我的未来不是梦》(Wǒ de wèi lái bú shì mèng)张雨生(zhāng yǔ shēng)
張雨生(1966年6月7日一1997年11月12日)は、中国台湾省澎湖県馬公市出身の男性歌手、ミュージシャン、プロデューサーで、台湾の「音楽魔術師」と呼ばれています。「僕の未来は夢ではない」は張雨生が歌う励ましの歌で、陳家麗が作詞し、翁孝良が作曲し、陳志遠が編曲しました。同曲は「黒松沙士」のテレビCMソングであり、張雨生の代表作の一つでもあります。1988年5月に発売されたUFOレコードの群星コンピレーションアルバム「6人の友達」に収録されています。
2010年、「中国語金曲賞」30年が12月12日の広州映画祭で発表され、張雨生の代表作「私の未来は夢ではない」は30年30曲に選ばれました。上の世代とは全く異なる生き方や価値観を持ち、平和な時代に生まれ、優れた生活をしている中で、この世代は自分の労働を通じて自分の存在価値を証明したいと望んでおり、作詞家はこの背景に基づいて曲を作り、歌の中でたゆまず奮闘する当世代のイメージを作り上げました。
11『一度でいいから愛して』庾澄慶
中国語:《让我一次爱个够》(ràng wǒ yī cì ài gè gòu)庾澄庆(yǔ chéng qìng)
庾澄慶、1961年7月28日台湾省台北市大同区生まれ、雲南省プーアル市墨江ハニ族自治県が原籍で、中国台湾の男性歌手、ミュージシャン、司会者、俳優です。「一度でいいから愛して」は、1989年7月20日に福茂レコードから発売されたポップスアルバムです。全14曲が収録されています。本アルバムの売上は40万枚を記録しました。
庾澄慶、台湾のバラエティ番組で何度も司会したことがあります。1986年にデビューアルバム「傷心歌手」をリリースすると10万枚の売り上げを突破し、ベストセラー歌手となり、長年の努力により、音楽の歌唱、作曲、編曲、制作、演奏における功力に定評があり、彼の音楽的才能により、金曲賞最優秀男性歌手に5度ランクインし、アルバム「津波」で第13回金曲賞最優秀男性歌手賞を受賞しました。また、台湾音楽史上初のバーチャルアイドル「ハーベビー」を生み出しました。創作の曲風が広く、多様な楽器に精通していました。2000年には台湾人の伊能静と結婚し、2009年3月に離婚しています。
12『気の向くままに』スールイ
中国語:《跟着感觉走》(gēn zhe gǎn jué zǒu)苏芮(sū ruì)
蘇芮、本名は蘇瑞芬。1952年6月13日台湾省台北市生まれ、中国台湾の女性歌手です。「気の向くままに」は陳家麗が作詞し、陳志遠が作曲し、蘇芮が歌った曲で、蘇芮の1988年1月8日に発売したアルバム「台北東京」に収録されています。蘇芮は英語名JULIEといい、台湾台北の小さな家に生まれました。蘇芮は山東省出身で、母は福建省出身です。香港のドラマー、アーヴィンとの結婚後すぐに離婚し、台湾のレコード会社の劉威麟と結婚しましたが、14年後に離婚しました。蘇芮は黒人のソウルソングを中国語の流行音楽に取り入れた初の人物です。頑固な性格で知られており、自分には合わないと思っていた作品の収録を拒否したりもしました。蘇芮の歌唱スタイルは明確で、独特の風格を持っていたようです。初のアルバム「乗り間違え」が発売されたのは、彼女の歌唱生涯の転機でした。
13『私が本当に何も持っていないかどうか』王傑
中国語:《是否我真的一无所有》(shì fǒu wǒ zhēn de yī wú suǒ yǒu)王杰(wáng jié)
王傑、本名は王大為。1962年10月20日に中国台湾省新北市永和区に生まれ、原籍は陝西省西安市、中国台湾の男性歌手、ミュージシャン、俳優です。王傑は3歳で両親と一緒に香港に移住し、幼い頃に複数の映画で役を演じました。
「私が本当に何も持っていないかどうか」は、王傑が歌った代表曲で、陳楽融が作詞し、陳志遠が作曲し、編曲しました。王傑が1989年1月18日にUFOレコードから発売した同名アルバム「私が本当に何も持っていないかどうか」に収録されています。
1989年2月、王傑は同曲を広東語の曲「何もない」でカバーし、広東語のアルバム「物語のキャラクター」に収録しました。 この時の王傑はすでにUFOレコードが支持するトップ男性歌手になっていたため、アルバムのタイトル曲「私が本当に何も持っていないかどうか」はUFOレコードのトップ曲の創作パートナー陳志遠、陳楽融が編集しただけでなく、MVは劉徳華で、アルバムは発売後1カ月で50万枚を突破しました。王傑は台湾史上3作連続でアルバムが60万枚を超えた最初の歌手になりました。
14『アジアの威風』ウェイウェイ、劉歓
中国語:《亚洲雄风》(yà zhōu xióng fēng)韦唯(wéi wéi)、刘欢(liú huān)
ウェイウェイ、本名は張菊霞。1963年9月28日に中国内蒙古自治区フフホト市に生まれ、山東省臨沂市蒼山県(現蘭陵県)向町原籍の、中国大陸の女性歌手、作曲家、俳優です。劉歓は、1963年8月26日に中国天津市で生まれ、中国大陸のポップス歌手、ミュージシャン、音楽教育者でもあります。
「アジアの威風」はウェイウェイと劉歓のデュエット曲で、張藜が作詞し、徐沛東が作曲し、1990年に北京で開催された第11回アジア競技大会の宣伝曲です。 「アジアの威風」の創作方法は少し特殊で、まず曲調があって、それから歌詞を書きました。徐沛東はこの曲を作ったとき、ピアノの前に座り弾いているうちにメロディーを見つけ、その後親友の張藜と二人で相談して詞を書きました。曲ははじめ「アジアの雄獅子」と呼ばれていましたが、専門家や指導者は「雄獅子」は一般的に中国そのものに対する比喩であり、競技大会の開催国はあまり強い自己色を持つべきではないと考え、「威風」に修正することになりました。
15『風は吹き続ける』張国栄
中国語:《风继续吹》(fēng jì xù chuī)张国荣(zhāng guó róng)
張国栄(レスリー・チャン、1956年9月12日―2003年4月1日)は、中国・香港出身の男性歌手、俳優、ミュージシャンです。1977年にアジア歌唱コンテスト香港区で準優勝し、歌謡界に進出しました。1983年には楽曲「風は吹き続ける」で注目を集めました。「風は吹き続ける」は鄭国江が作詞、宇崎竜童が作曲、張国栄が歌った曲です。レスリー・チャンが1983年5月1日にリリースした同名アルバム『風は吹き続ける』に収録されています。同曲は映画『四海を縦横に』の主題歌でもありました。2010年12月、同曲は「中国語金曲賞」30年の「私の好きな曲」賞を受賞しました。
1982年、張国栄は華星レコードに移籍し、会社が発売した最初のアルバムにおいて、張国栄は鄭国江に日本の歌を渡しました。当時、鄭国江はこの曲が山口百恵の武道館コンサートのテーマ曲だとは知らなかったのです。その後、鄭国江は作詞の参加で子どもの心や悠々とした海風が、野火の山を冷やし、風が吹き続ける眺めを書きました。張国栄が自分の歌い方で録音し、歌「風は吹き続ける」が生まれました。
16 『冬の日のともしび』費翔
中国語:《冬天里的一把火》(dōng tiān lǐ de yī bǎ huǒ)费翔(fèi xiáng)
費翔、1960年12月24日中国台湾生まれで、中国とアメリカのハーフです。中国語ポップスの男性歌手、俳優でもあります。「冬の日のともしび」はSolan Sisterが作曲し、庄奴が作詞し、費翔が1986年にリリースしたソロアルバム「四海を渡る歌声」に収録されています。
1987年、費翔は台湾の歌手として、初めて春節番組の舞台に出演しましたが、彼が番組で歌った「故郷の雲」と「冬の日のともしび」は、すぐに話題となり、1987年に全国的なヒット曲となりました。
17『オリーブの木』斉豫
中国語:《橄榄树》(gǎn lǎn shù)齐豫(qí yù)
斉豫は、1957年10月17日中国台湾省台中市生まれ、中国台湾の女性歌手、ミュージシャン、慈善家、斉秦の姉です。「オリーブの木」は李泰祥が作曲し、三毛が作詞し、斉豫が1979年7月9日に発売した同名アルバム「オリーブの木」に収録されています。この曲は斉豫の代表的な作品の一つとなっています。
1979年、『オリーブの木』は香港第2回中国語金曲賞ベスト10を受賞しました。2010年、「中国語金曲賞」30年が12月12日に広州映画祭で発表され、「オリーブの木」が30年30曲に選ばれました。
斉豫がこの歌を歌い始めたとき、西洋民謡の歌い方で歌っていましたが、実際にスタジオに入ると、李泰祥からこの曲は広く歌える歌にしたいと要求がありました。「オリーブの木」の作詞家の三毛もいくつかの歌詞に同意していませんでしたが、李泰祥と相談して「オリーブの木」という題名になりました。「オリーブの木」は李泰祥が作曲し、三毛が作詞し、斉豫が1979年7月9日に発売した同名アルバム「オリーブの木」に収録されています。この曲は斉豫の代表的な作品の一つとなっています。
18『想い』毛阿敏
中国語:《思念》(sī niàn)毛阿敏(máo ā mǐn)
毛阿敏は、1963年3月1日上海市楊浦区生まれ、中国大陸のポップス歌手、俳優です。1985年、初ソロアルバム「あつあつのコーヒー」をリリースし、メジャーデビューしました。「想い」は、1993年に発売された毛阿敏のアルバム「歌壇のお姉さん」の中の1曲です。この曲は喬羽が作詞し、谷建芬が作曲しました。
1986年に第2回全国青年歌手テレビグランプリに出場し、プロ並みの歌声をコンテストで披露し3位を獲得しました。1987年にユーゴスラビア国際音楽祭で「緑の葉の根への想い」で歌唱パフォーマンス3等賞を受賞しました。国際ポップスコンクールでは中国ではじめて賞を受賞しました。1988年に中央テレビの春節番組に参加し「想い」を歌いました。1991年にドラマ「渇き」の同名主題歌を歌い、歌謡界の地位を築き、1991年には匯通杯北京テレビ局優秀歌手選考で、視聴者の最も好きな歌手に選出されました。2002年には中国障害者スポーツ大会から「愛の大使」の称号を授与されました。
19『上海灘』葉麗儀
中国語:《上海滩》(shàng hǎi tān)叶丽仪(yè lì yí)
葉麗儀は、1948年10月13日マレーシア生まれ、中国・香港の女性歌手です。葉麗儀は初期にHSBCの銀行員、キャセイパシフィック航空の職員であり、補助警察を兼任して働いていましたが、CMソングから、英国EMI社と契約するに至りました。
「上海灘」は黄錩が作詞し、顧嘉輝が作曲、編曲しました。葉麗儀が1980年7月16日にリリースした同名アルバム「上海灘」に収録されています。同曲は周潤発、趙雅芝主演のドラマ『上海灘』の主題歌でもあります。1980年、同曲は第3回中国語金曲賞ベスト10を受賞しました。黄氏がこの曲を作った際、ファックスがなく、彼は顧嘉輝と電話で曲を歌い、黄氏は記録し、もう一度歌い、そのように作り上げられました。
20『一枝の梅』費玉清
中国語:《一剪梅》(yī jiǎn méi)费玉清(fèi yù qīng)
費玉清、本名は張彦亭、1955年7月17日中国台湾省台北市生まれ、原籍は安徽省安慶市桐城市で、中国台湾の男性歌手、司会者です。1973年、番組で開催された「星対星」歌唱コンテストに出場し、4位を獲得し、歌手として活動しはじめました。
「一枝の梅」は、費玉清が1983年4月に発売したアルバム「長江の水この情は永遠に残らず」に最初に収録された曲です。同曲は1984年の同名ドラマ「一枝の梅」のオープニングテーマです。2015年の沈騰、馬麗主演映画「シャーロットの悩み」の宣伝ソングでもあります。
「一枝の梅」は長い流行歌で、費玉清の清らかな声に、婉曲な尾音を加えて、この歌の感情をゆっくりと表現しています。しかも非常に透過性があり、リズム性もあります。費玉清は深い感情の声とメロディーで曲の糸をつむぎ、人々を曲を聞いて深い味わいを感じるのです。
三 まとめ
さて、これまで1980年代の流行曲ベスト20をご紹介してきました。実は、日本の曲のカップリングもあり、知っている曲があったかもしれませんね。カラオケで1曲でも中国の歌を歌うことができると、中国の友達にはとても喜ばれます!ぜひこの中から好きな曲を選んで覚えてみてくださいね!
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